『存在する人間』について考えてみる 第1章:AIの時代に、人はなぜ“ここにいる”必要があるのか
- 中村恵子
- 11月9日
- 読了時間: 3分

最近、AIのニュースを見ない日はほとんどありません。
絵を描いたり、文章を書いたり、会話をしたり、
時には医療診断やビジネスの意思決定に関わったり。
友人のような相談相手として、仕事の相棒として、
私たちはごく自然にAIと「対話する」ようになっています。
そうすると、つい考えてしまうんですよね。
AIと人間って、どこが違うんだろう?
感情か。知能か。創造力か。
いずれもAIは、ある程度それを模倣できてしまいます。
では、人間だけが持っているものって何なのか。
そこで浮かんできたひとつの答えが、「質量を持って、この世界に存在していること。」
■AIは「いるようで、どこにもいない」
AIは、どこかに“いる”ように感じられるのに、実際にはどこにも存在しません。
触れられる身体もなく、温度もなく、呼吸もしていない。
それでも私たちはAIに話しかけ、返ってきた言葉に安心したり、
驚いたり、励まされたりもします。
では、それを「存在」と呼べるのか。
■人間は、世界に痕跡を残しながら生きている
一方で人間はどうか。
誰かの手に触れれば温度が移り、涙が頬を濡らし、
時間とともに身体は変化し、老いていく。
声を発すれば空気を震わせ、一挙手一投足が周囲の物質を動かす。
「存在する」というのは、世界に物理的な痕跡を残し続けること。
存在するものは、少しずつ摩耗し、傷つき、変化しながら、
たしかに「ここにいた」という軌跡を刻んでいきます。
その痕跡の中で、人は経験し、記憶し、
誰かを思いやる力─すなわち想像力や感受性─を育てていくのだと思うのです。
■でも、人は「存在しないもの」にも心を動かされる
あれ?と思う瞬間もあります。
もうこの世にいない人の言葉に涙することもある。
本の登場人物に胸が締めつけられることもある。
触れられないのに、温度を感じるような気がしてしまうのは、なぜなのか。
では結局のところ、存在とは記憶のことなのか?想像力のことなのか?
それとも、記憶や想像を生み出す元になった、
身体による「経験」こそが、存在の源なのか。
■想像力は「存在」の代わりじゃない
堂々巡りではありますが、私はやっぱり、こう思います。
経験と記憶のないところに、想像は育たない。
私たちが誰かの痛みを想像できるのも、
抱きしめられた記憶や、涙を見た体験や、触れた手の温度が、
身体のどこかに残っているから。
つまり、想像力は存在の代わりではなく、存在から生まれたもの。
存在し、触れ合い、傷つきながら生きるということ。
その中でしか得られない経験と記憶があって、そこから想像力も感受性も育っていく。
そう考えると、「存在すること」には、
やっぱり大きな意味があるのではないかと思うのです。
■それでも「存在の価値」は、
もしかしたら薄れていくのかもしれない
AIがそばにあり、人より正確に、優しく、疲れもせず対話してくれる世界。
人と人とが触れ合いながら生きることより、
効率よく、傷つかずに済む方法を選ぶ人が増えていくかもしれません。
でもやっぱり、私は信じたいのです。
世界に触れ、世界に触れられながら生きること。
時間に削られ、限りある命を持ちながら、それでも「ここにいる」と言えること。
その尊さを、子どもたちにも、保護者の皆さんにも、伝えていきたい。
AIの時代だからこそ。
人間として「存在する」ことの意味を、もう一度考え直してみたいのです。
この “『存在する人間』について考えてみる” シリーズは全4回の予定です。
📍ECCジュニア田村町教室
香川県丸亀市田村町
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