『存在する人間』について考えてみる 第3章:親と子として存在することの尊さ
- 中村恵子
- 11月23日
- 読了時間: 4分

■AIにも、私にも、再現できない関係
AIについて考えるとき、そして「存在する」ということの意味を辿るとき、 どうしても避けられない、圧倒的な関係があります。
それが「親と子」です。
私は親になったことがありません。 だからこそ、自分の目の前で日々奮闘している親御さんたちの姿を見ていると、 そこに言葉にしようのない畏敬の念が湧いてきます。
どれほどAIが賢くなっても、どれほど私が英語講師として子どもたちと関わっても、 どうしても再現できない領域がある。
それが、「自分ではない他者のために、生涯かけて責任を背負い続ける覚悟」です。
■子どもを育てるということは、
「存在」と「存在」をぶつけ合いながら歩んでいくこと
親御さんたちを見ていると、毎日葛藤して、反省して、時に自分を責めながら、 それでも子どもに向き合い続けているのが伝わってきます。
泣き声にイライラしてしまったり、思いが通じずに投げ出したくなったり、 逆に寝顔を見るだけで全てが報われたり。
その揺れは、どれも「存在しているからこそ」生まれるもの。 AIには経験できない、人間だけの揺れです。
そしてその揺れこそが、親と子という関係を「ただの情報ではない現象」にしている。 熱が生まれ、摩擦が生まれ、痛みも喜びも伝わっていく。 これは、画面越しの対話では生まれないものです。
■触れられる距離にいるという奇跡
親と子の関係には、言葉では説明がつかない“密度”があります。 同じ空気の中で、同じ生活のリズムの中で、 時に衝突し、泣き、笑い、怒って、また戻ってくる。 この繰り返される運動のすべてが、身体を通して行われている。
子どもが泣いたときの震える肩の動き。 小さな手が、助けを求めてママやパパに伸びる。 ギュッと抱きしめて子どもを包んであげることもあれば、 時には心を鬼にして、手を放し、声をかけることもある。 そんな時の、あの親御さんたちの呼吸の揺れ。
こうした“存在のやり取り”そのものが、親子という関係の中心にあるんですよね。
あれほど濃密で、むき出しで、逃げ場のない関係は、 生きている人間の世界だから存在し得るもの。
何者にも代わることのできない、 ただそこで生きている二つの存在の間にしか生まれないものです。
■私はその関係を垣間見ることはできても、
届くことはできない
私は、毎週子どもたちと会うし、英語を教えるという形で成長に関わることができます。
でも、「この子の人生を背負う」という覚悟は、私にはないし、 持つべきではないものだと思っています。
だからこそ、親子の関係を見るたびに、 私には踏み込めない領域が、確かにそこにあると実感するんです。
その領域は恐らく、AIがどれほど発達しても辿りつけない場所であり、 私がどれほど子どもを大切に思っても、決して取って代われない場所。
それが、親と子として「存在する」ことの尊さなのだと思います。
親御さんたちは、完璧を求められない中で、 毎日、ひとりの小さな人間の未来を抱きしめて生きている。
だからこそ、私は親御さんたちに敬意を抱いています。 そして、ほんの少し距離のある場所から、子どもたちを見守ったり、 時には支えたり、寄り添ったりする立場でいることが、 私にとっては自然なんだと思います。
■親は、子どもの“最初の世界”になる
親子として存在することは、奇跡みたいな営みです。 でもその奇跡は、いつも美しい形をしているわけではありません。
むしろ、揺れたり、迷ったり、思い通りにいかなかったり、イライラしたり、
あとから「あぁ言わなきゃよかった」と胸の奥が痛んだり。
そんな瞬間の積み重ねです。
でも、そのどれも否定しなくていいのだと思います。
子どもたちと接していると、親御さんが揺れながら向き合ってきた時間が、 どれほど深いところでその子を支えているか、日々感じるからです。
子どもたちは、親御さんの不完全さに失望するどころか、
その揺れの中に「この人は、本気で自分を見てくれている」という
確かな温度を受け取っているように見えます。
親は子どもの“最初の世界”であり、
その世界が完璧である必要は、きっとないのでしょう。
整ってはいなくても、生きた世界としてそこに“親という存在”がある。
それだけで、子どもにとっては十分すぎるほど大きく、
そして間違いなく、心強いものなのだと思います。
親御さんが子どもに「最初の世界」を手渡すのだとしたら、
私はその先で“言葉”を使って「別の世界」とつながる方法を
一緒に見つけていく者でありたいです。
この “『存在する人間』について考えてみる” シリーズは全4回の予定です。
📍ECCジュニア田村町教室
香川県丸亀市田村町
コメント